AngkorWat

アンコールの歴史

 カンボジアにおける、アンコール王朝時代とは、アンコール周辺に都城や王宮が置かれ、政治の中心として栄えた時代のことで、ジャワ王国からの独立からはじまり、タイのアユタヤ王朝との攻防による衰退・滅亡まで(802~1432)のアンコール王朝26代の歴史です。

 その間、外的には周辺勢力の侵攻を防ぎつつ、内的には王位争奪を繰り広げながら、王が代わる毎に、新都・新王宮・護国寺院の建設、大規模な治水・灌漑施設であるバライの開拓が行われてきました。こういった大規模な造営事業と度重なる周辺諸国との争いによって疲弊し、次第に衰退へと向かったと言われていますが、一方その間に、世界に誇るクメール文化が花開き、今もなお、人々の心を魅了し続けています。

 ここでは、クメール文化の開花した王朝の歴史を簡単に紹介しておきます。

* アンコール王朝の歴史は、各地に残された碑文から知ることができます。現在までに1200あまりの碑文の存在が確認されています。ただし、碑文は歴史を綴ることを目的としたものではなく、その多くは神や仏に捧げる願文であるので、当時のことはきわめて断片的にしか知ることができません。また、中国の書物にもアンコール王朝を描写した記録が少しではありますが残されています。

アンコール前史

 アンコール王朝が開かれる以前、8世紀までの扶南・真臘時代にもサンボール・プレイクック遺跡群の存在等によってすでにすばらしい都市文明が開花していたことが知られています。

ジャヤヴァルマン1世

 北方クメール人による真臘が興り、扶南を滅ぼすと、この王の元で勢力が拡大されます。クメール文字が使用され、領土も現在のラオス南部とカンボジア全域、メコン川流域を収めていたと考えられています。しかしジャヤヴァルマン1世の死後は分裂弱体化して、ジャワ王国の支配下におかれていました。

アンコール時代

〔1〕ジャヤヴァルマン2世(在位802~834年)

 ジャワの帰属から離れ、クメール人濫觴の地であるワット・プー地方(現ラオス南部)を抑えて、アンコールの地に落ち着きました。王は802年、プノン・クーレンの丘に登り、転輪聖王としての即位儀式を行ったと碑文等に伝えられています。これがアンコール王朝の始まりとされています。

〔2〕ジャヤヴァルマン3世(在位834~877年)

 父の成し遂げた国内統一を維持できなかったのではないかと言われています。

〔3〕インドラヴァルマン1世(在位877~889年)

 タイ東北部まで遠征して領土の拡大を図りました。この王の時、初めての大規模灌漑施設である大貯水池インドラタターカが開拓されました。また、バコン寺院(国政を行う山岳型寺院)が建設されました。

→ ハリハラーラヤ ― ロリュオス遺跡群へ
〔4〕ヤショヴァルマン1世(在位889~910年頃、インドラヴァルマン1世の息子)

 ハリハラーラヤの地からアンコールの地に遷都したヤショーヴァルマン一世は遷都後も父インドラヴァルマン一世が企てた工事を継承して周辺の聖山や小高い丘の頂上に、複数の小塔からなるピラミッド型の護国寺院を建立しました。プノム・クロムもその一つで、ヒンドゥー教の神が祀られました。
 ちなみに、ヤショーヴァルマン一世の治世の元では宿駅の原型である僧房を国内全土に設置し、サンスクリット語の碑文が副えられるなど、首都を中心にした強力な中央集権体制が整いました。

→ ヤショダラプラへ
〔5〕ハルシャヴァルマン一世(在位910~922年頃)
〔6〕イーシャーナヴァルマン二世(在位922頃~928年)
〔7〕ジャヤヴァルマン四世(在位928~942年、ヤショーヴァルマン一世の義理の弟)

 ジャヤヴァルマン四世が即位すると、この王が長年支配して本拠地としていた、アンコールの北東約105㎞★のところにあるコーケーという地に都城がおかれました。以後、コーケーでの統治は16年間続きました。その間この地にも壮大な寺院が建立されます。

〔8〕ハルシャヴァルマン二世(在位942頃~944年、ジャヤヴァルマン四世の息子)
〔9〕ラージェンドラヴァルマン一世(在位944~968年)

 ラージェンドラヴァルマン一世によって再び都はアンコールに戻されます。そして、ヤショーヴァルマン一世の時代に未完成であった事業を継承・完成させていき、あらためて首都アンコールの充実と全領土に対する行政の充実をはかりました。まず、東バライの大規模な改修工事が行われたのち、護国寺院としてはプレ・ループ寺院を、また祖先を祀るためには東メボン寺院が建立されました。

〔10〕ジャヤヴァルマン五世(在位969~1000年頃、ラージェンドラヴァルマン一世の息子)

 父王が亡くなった後、幼少で即位しました。前王から仕えていたバラモンで王師のヤジュニャヴァラーハという人物がこの王の摂政的役割を果たして政治をサポートしていたと言われています。このヤジュニャヴァラーハという人物は、967年、アンコール地域の北郊外にバンテアイ・スレイ寺院の建立に着手したことで知られ、その後約30年かけて完成させました。また、ジャヤヴァルマン五世は東バライの南側に新王宮を建設し、前王が築造した東メボン寺院の築造も引き続き行われました。王は東バライの西側にタ・ケウ寺院を建立しましたが、完成を見ないで没しました。

〔11〕ウダヤディティヤヴァルマン一世(在位1001~1002年)

 この王の業績等は未詳です。コーケーで統治したものかとも言われています。

〔12〕ジャヤヴィーラヴァルマン(在位1002~1010年頃)

 前王の死後、アンコールを都城として支配しましたが、次代のスールヤヴァルマン一世と争い、1010年頃に敗北しました。

〔13〕スールヤヴァルマン一世(在位1011~50年)

 ジャヤヴィーラヴァルマンがスールヤヴァルマン一世と王位継承争いを繰り返し、一時アンコール都城を占拠しました。その後、スールヤヴァルマン一世がアンコール都城を攻め落として奪回し、王位に就きます。
 スールヤヴァルマン一世はアンコールの都城内の王宮を整備・新築し、高い城壁で囲みました。そして王宮内に護国寺院であるピミヤナカスを建立しました。
 またこの王は、巨大な貯水・灌漑施設である西バライを開拓したことで知られています。西バライには水位測定のための西メボン寺院を築造しました。
 また、領土の拡大も図られ、北はプリヤヴィヘア寺院、東は大プリヤ・カーン、南はプノン・チノール寺院など周縁部へ遠征したことでも知られています。

〔14〕ウダヤディティヤヴァルマン二世(在位1050~66年、スールヤヴァルマン一世の息子)

 パプーオンという新しいピラミッド型の護国寺院をアンコール城内の中央に建立しました。
 この父子の都城の広さは現在のアンコール・トムに匹敵すると言われています。この都城の周縁には水路が張り巡らされていましたが、これは父である前王の開削した西バライにより可能となったものでした。ウダヤディティヤヴァルマン二世も父王の築造した西メボン寺院の第二期工事を行い、ヴィシュヌ神を安置しました。ウダヤディティヤヴァルマン二世についてはあまりよく解っていませんが、若くして即位し、王の支配が行き届かず、地方の反乱が絶えませんでした。

〔15〕ハルシャヴァルマン三世(在位1066~1080年)

 このころから、激しい王位争奪戦が繰り広げられました。

〔16〕ジャヤヴァルマン六世(在位1080~1107年)

 この頃、王宮内で暗躍したバラモンで王師のディヴァーカラパンディダという人物によって、東北タイ地方のマヒ―ダラプラ王家という名もない王家の出身であった、ジャヤヴァルマン六世が即位しました。ジャヤヴァルマン六世は碑文が残っていないために、足跡がほとんど解っていません。本拠地が、東北タイからカンボジア北部であったらしく、北部に位置するプリヤ・ヴィヘヤ寺院やワット・プー寺院の整備に関与しています。

〔17〕ダーラニンドラヴァルマン一世(在位1107~1113年、ジャヤヴァルマン六世の兄)

 弟のジャヤヴァルマン六世とダーラニンドラヴァルマン一世の二人は東北タイ地方の王家の出身であり、本拠地もそちらにあったらしくアンコールの地には関与しなかったと考えられています。そのためか次第に王国がいくつかの地方に分裂していたものと考えられています。また、この王と次代のスールヤヴァルマン二世との争いに発展し、ついには王が刺殺されてしまいました。この内紛には王師のディヴァーカラパンディダが関与していたと考えられています。

〔18〕スールヤヴァルマン二世(在位1113~1150年頃、先代二王の甥の息子)

 この王が即位するにあたっても、王師のディヴァーカラパンディダが即位式を取り仕切るなど、即位に深く関与していました。
 スールヤヴァルマン二世は、新都城を再びアンコールとし、その中心に護国寺院であるアンコールワットを建立しました。王はヴィシュヌ神の崇拝者で、アンコールワットはヴィシュヌ神に捧げられました。
 スールヤヴァルマン二世は国内外の敵対勢力との争いが多かったことで知られています。すなわちこの王の時代に最もアンコール王朝の領土が拡張されました。1145年にベトナム中部のチャンパの首都ヴィジャヤを陥落させ、東のチャンパの領域から、西はビルマの国境まで、またチャオプラヤー河中流域からクラ地峡までをその領土としました。国内においては、前述の通り三十年以上の歳月をかけてアンコールワットを建立しました。しかし、対外的な戦争と、国内におけるアンコールワットの建設によって経済的・政治的な疲弊を招いたのではないかという説もあります。王の死後はチャンパ郡の侵攻を受け、1177年にはアンコールの都城は占拠されてしまいます。
 なお、1178年に書かれた宋代の周去非『嶺外代答』にもこの時期のアンコール王朝に関する記述が見られます。

ダラニーンドラヴァルマン二世(スールヤヴァルマン二世の従兄弟)

 この人物に関してはスールヤヴァルマン二世とヤショヴァルマン二世の間に王位にあったと考える説がありますが、証拠となるような碑文が確認されていません。
 しかし仏教に深く帰依していた人物として知られています。ベン・メリア寺院、大プリヤ・カーン寺院などの大きな仏教寺院のほか、チャウ・サイ・テヴォダ寺院やバンテアイ・サムレ寺院をはじめとする多くの小寺院を建立しました。また、仏に捧げるために街道沿いに施療院や宿駅等をおいたことで、国内が整備されました。
 ダラニーンドラヴァルマン二世は、後のジャヤヴァルマン七世の父親としても知られ、その信仰の深さは息子にも深く影響しました。ジャヤヴァルマン七世はこの父を観世音菩薩に見立ててプリヤ・カーン寺院に祀っています。

〔19〕ヤショーヴァルマン二世(在位1150頃~1165年)

 内紛により、自らの寵臣であったトリブヴァナーディティヤヴァルマンに殺害され王位を奪われました。

〔20〕トリブヴァナーディティヤヴァルマン(在位1165頃~1177年)

 クーデターにより、前王から王位を奪った人物として知られています。しかし、この頃、ベトナム南部のチャンパー軍との紛争が続いており、王自身もチャンパー軍との戦争で戦死しました。

〔21〕ジャヤヴァルマン七世(在位1181~1220年頃)

 前王の在位中、1165年頃、チャンパーへの出兵の指揮をとりつつ、大プリヤ・カーンに立てこもっていました。1177年プリヤ・カーン寺院の戦いやトレン・サップ湖の戦いでついに勝利しました。1181年にアンコールを占拠していたチャンパ軍を追い払い、プノン・クーレン高丘で王位に就きました。1190年、チャンパへの報復としてその首都を攻撃し、その後約三十年間チャンパを併合し支配下に置きました。支配領域をもさらに拡大し、西南はマレー半島、西北は現ミャンマー方面にまで領土を拡大しました。
 国内では、新都城アンコール・トムを建設しました。父親同様、仏教への帰依が深かったことで知られるこの王は、アンコール・トムの中央にバイヨンを配置するなど、そこには仏教を篤く信奉し、仏教中心の政策思想が貫かれたことが如実に表れています。また、バイヨンはアンコールの芸術の集大成であるとも言われています。
 また、1186年にはタ・プローム寺院の建立が開始されたほか、バンテアイ・クデイ寺院・タ・ネイ寺院・ニャック・ポアン寺院などの建設工事が開始されました。  タ・プローム寺院とプリヤ・カーン寺院には、ジャヤヴァルマン二世の王子達の作った碑文が残っています。
 また、国内主要街道筋には121ヵ所の宿駅や102ヵ所の施療院がおかれ、国内外に渡る流通網が整備されました。これらは地方の商業拠点となり、流通・交易が活発になりました。その様子は中国人使節、周達観の見聞録である『真臘風土記』や、その他に『諸蕃志』(『諸蕃志』「三仏斉伝」宋の趙如?が『嶺外代答』の海外諸国の記事をもとに著した書。1225年)にえがかれています。
 このように、ジャヤヴァルマン七世はアンコール王朝の最盛期を迎えた王でありました。フランスの研究者の中には多数の造営事業のために重税や兵役が民衆に課せられ、その結果として国の弱体化を招いたとみる説もあります。
 ちなみに、このジャヤヴァルマン七世の像とされる美しい座像を、プノンペン国立博物館で見ることができます。

→ この時代の遺跡へ
・タプロム寺院
  (ジャヤヴァルマン七世が母の菩提を弔うために建立したとされる仏教の僧院)
・バンテアイ・クデイ
・プリヤ・カーンのバライ(ヤショダラタターカ、プリヤ・カーンの東)
・ニャック・ポアン(ヤショダラタターカの中央部)
・アンコールトム(新都城)
・バイヨン(新都城の中央部に置かれた護国寺院)
〔22〕インドラヴァルマン二世(在位1220頃~1243年)

 武勲が知られる、前王の息子シュリーンドラクマーラど同一人物とされています。

〔23〕ジャヤヴァルマン八世(在位1243~1295年)

 ジャヤヴァルマン七世の死後は領土は次第に縮小し、周辺諸国が勢力を伸張していきます。けれども、いまだアンコールを中心とする王朝は安泰を維持していました。このころの王朝の栄華の様子は、先にもふれた『真臘風土記』に述べられています。
この頃、東南アジアにおける元のクビライ・カーンの侵攻の影響によって東南アジアの情勢も大きく動き、その影響がアンコールにも波及してシャム北部のシャム人が侵攻してきました。この攻防戦のために都城や護国寺院を新築する余裕がなかったので、ジャヤヴァルマン七世時代に築かれた都城や寺院をそのまま利用しました。
 但し、ジャヤヴァルマン八世は、シヴァ神の熱心な信奉者であったため、バイヨンその他、仏教信仰の篤かった前王の築いた仏教寺院をヒンドゥ寺院に改造しようとして、激しい廃仏行為が行われました。その廃仏運動の背景には王位継承をめぐる内紛があり、王が交替したのを契機に王権誇示のためにも前王の仏教政策が覆されたものと考えられています。
たとえば……。
・バイヨンでは、仏像の代わりにハリハラ神造が安置され、1935年には前王時代の大仏像が中央祠堂の地下から発見されました。
 代わりに、バイヨンの内回廊には乳海撹拌図、マハーバーラタやラーマーヤナなどヒンドゥ教の題材が刻み込まれ現在に至っています。
・タ・プロムやプリヤ・カーン寺院の壁に刻まれていた仏像もはぎ取られています。
・バンテアイクデイ 境内から廃仏毀釈によって土中に埋められた274体の仏像が発見されました。これに関しては、★に詳述します。

〔24〕シュリーンドラヴァルマン(在位1295~1308年)
〔25〕シュリードラジャヤヴァルマン(在位1307~1327年。前王の娘婿)
〔26〕ジャヤヴァルマーディパラメシュヴァラ(在位1327~1353年頃)
 以上がアンコール王朝26代の歴史です。
 この後、アユタヤに攻められて、アンコールの領土は縮小していきます。15世紀、支配者層はついにアンコールの地を放棄して、南部のスレイ・サントー、さらにロヴェックへ移り、やがてプノンペンを首都とします。